昭和40年11月21日 夜の御理解



今朝、秋永先生たち夫婦が、徹さんを連れのうて、親子三人でお礼に出てまいりました。ここで、一生懸命の、本人なりの修行でございますけれども、修行させて頂いて、その、お礼でございましょう。話を聞かせて頂きますと、昨日、白木原のところで、菊栄会の方達が、こっちへ向こうてくるのと会うて、それで、その、本人をやり過ごしといて、その後からすぐに電話をかけた。丁度、家では嘉朗さんが居りましたそうですから、すぐ自動車で迎えに行こうと。秋永先生が、「せっかく修行させていただきよるから、迎えには行くな」と、けれども、「応援にはよかくさ」「伴奏を入れてやるくらいなことには、よかくさ」と言うてその、あー、嘉朗さんと、弟の栄治君と二人で、参りましたそうです。そしたらもう、それこそもう、全然もう歩きよらんそうですもん。足が上がらんそうです。それからほんならもう、「自動車に乗れ」と、言うてその、言うたところが、「いや、乗らん」と、やっぱ言うそうです。そんなら、もう、しよんないからおら帰えろと言うてその、嘉朗さんは自動車で帰ったんです。それで栄治君だけが降りてから、「さあ、兄ちゃん頑張れ。兄ちゃん頑張れ」で、兎に角、あれ、わずかばかりのところを、三時間かかって帰った。八時に電話の架かって、十一時に着いたということですからね。三時間かかった。それでもう、大橋のところじゃない、あそこは何ちいいよったか、井尻のところまできたら、「栄治もう、いよいよいかんぞ」ち、もう、足が上がらんち、そう言うそうです。それで、栄治さんがもう、大きな声を出してから、「もう、ここまで来て、何ち言うコツか、頑張れ」ち、言うてから、一生懸命おごったそうです。そうしたら、やっぱ元気出してから、引きずるようにしてではあるけれども、お家まで帰った。(笑い)帰ってから、もうあんた、風呂沸かしたり、それを迎えてから、お祝いをするというて、お家では準備をしとったそうです。それでもう、大童ではございましたけれども、私、そういう皆が、家内やら、弟やら、いわゆる弟達、子供たちがです。もう、その、兄ちゃんがその、修行に一生懸命やってくれるので、私本当に有難かったと言うて、今日、お礼言うとりましたけれどね。確かにあのう、私、それがどういう意味か良く分りませんけれども、「信心には、連れはいらん」と、「ね」。「信心に連れがいれば、死ぬるにも連れが要ろうが」と仰ることは、もう、大変難しいことだと思うですね。信心に連れは要らんということとですね、信心に連れがいると、死ぬるにも連れが要ろうがと、いうような、難しいことで結んでおられるんです、この御教えは。ですから、次に、私が、頂きますことは、「旅は道連れ、世は情け」と言うではないかということです。その、お届けを聞かせていただきよりましたら、そんな御理解を頂くんですよ。「ね」。「旅は道連れ、世は情け」というではないかと。そして、信心には連れは要らん。信心に連れがいると、死ぬるにも連れが要ろうがという、難しいことに成って行くのです。だから、その前提としてです、どうしても信心には、連れがやっぱいるということ。いや、それは、共励しあう連れが要るということ。お互い例えば、こうやって椛目に、何百の信者が居りましょうけれども、これは、全部同行だということ。いうなら、お連れだということ。「ね」。しかも、をの連れがです、お互いが、気持ちの良いとき、調子の良いときばかりはございませんから、「さあ、そこは頑張るとですよ」ある場合には、叩いてでも、怒ってでもです。それは、やっぱ元気が出てから、願いが成就することが出来るんですから。「ね」。やっぱり連れがいるんですよ。ですから、信心には、連れは要らんというとこだけを頂きますと、なんかこう、冷たい感じが致しますけれども、それは、死ぬるにも連れが要るというのです。いよいよギリギリの信心には、そういう意味ですけれども、その前提としては、「ね」、信心という例えば、行程、その旅です。人生の長い旅をするのにはです、どうしてもその、道連れがいるんだと。「ね」。しかも、世は情けというではないかとこう言う。徹さんが、後から話しておりましたが、もう、やっぱりあんな変わった風体して、とうとう仕舞には、草履が履けないもんで、裸足で行きよったそうです。そるきん、ある人は、「貴方は、どこから、どこへ行かれて、何をなさる(笑い)とですか」ちゆうて、聞く人があるそうです。それからもう、日暮れだったけど、足もきつうしてやったけど、女学生のひと連れが、その、古風なやつが行きよると思うてから、もう、前になり、後ろになりして、始め行きよったそうです。そしたら、もう、段々足が上がらんとですね、もう兎に角、私に、その、頑張りなさい、頑張りなさいち、言うごたるふうでですね、その、先になり、後ろになるごたるふうしてからその、応援してくれた。といったような話をしておりました。「ね」。やっぱり、世は情けです。「ね」。ですから私、ここで一つ、本当に、分らせて頂かねばならんことは、そういう同行です。そういう一つの、道連れのです、「ね」。反対に邪魔になって居るようなことはなかろうかということを、一つ覚えておかなければならない。「ね」。例えていうならばです。家族のものが、一生懸命、私は、信心にならなければいけんぞということをです。そういう、白真剣な修行をしている方達があるわけです。「ね」。ところが、椛目にお参りしたらです、「ね」。ある人が言うた事やら、行うておることやらを見てから、がっかりして、その、信心が、いわば、少し上がりよったつが、もうそれで、上がらんごつなるような人があるようなことがあってはならんという事です、「ね」。もう、本当に意気消沈、どうしようかと思うて、御広前やらせて頂いた。お参りさせて頂いた。「ね」。あちらの奥さんの修行の姿を見たら、「ね」。親先生の御理解を頂いたら、あそこで修行しよらす方達の、姿を見てたら元気が出たというような、私は、伴奏を、もう、無言の中に、入れてやれれるおかげを、日頃頂かにゃいけんのだけれど、無言の中にです、誰もだれもいやあせん。「ね」。じゃわんな事も言わんのだけれどもです、そういう白真剣な修行をしている人たちの、邪魔になるような、言動です。言うた事やら、行うておることやらが、信心でないとそれを反対に、マイナスするような結果になるようではです、相すまんことです。かえって、同行がです、かえって、連れがです、手まとい、足手まといになるようなことになっては、相すまんことだというようなことをです。特に、御広前の家族のもの、修行させて頂いておる一同のものは、そういうことに心を配らしてもろうて、スキのない信心をさせてもらわにゃ、相すまんということを感じますですね。どうぞ。